如何に私が伊丹十三という方に敬意を持っているかは計りようもありません。
伊丹十三の「ともかく正義は悪である」は私の座右の名となりつつあります。
実際凄い方だという私の見解に数十年ブレはありませんし、…未だにエッセイを読み繰り返す今日この頃です。
で本日は伊丹十三の哲学の匂いがプンプンする名言の数々をば…ご紹介させて頂きます。
「イヴ・サンローランは20回縫いなおす。
天才は19回目でまだ直す目を持っている。」
「既成概念に一撃加えることで新しいものが見えてくる」」
「自分に出会えない人生は、他者とも出会えない」
「死ぬなら楽に死ぬ。苦しむなら治る。
どっちかにしてもらいたい。苦しんだ上に死ぬなんて理屈に合わぬ」
「時代は進歩しているのであろうか、それとも単に移り変わっているのであろうか。若ものたちの趣味が、このような低い次元で、根無し草のように漂っていることは困ったことだと思うのです」
「そもそも日本人というのは妙に工夫を凝らしたがる悪い癖がある。それをまたメーカーはよく知っているから、服でも車でも台所用品でも、なんだか知らんが妙なポケットがついたり、不必要な花模様がついたり、なにかこう小市民的に一工夫した奴を次次に捻り出してくる」
「一体、東京はいつ頃から醜くなり始めたんだろう。江戸はどうだったんだろう。江戸の街は美しかったろうな、多分。第一全部日本建築だったんだもんね。建築の様式に統一があれば、街なんて美しくないわけがない」
「ことに私が大嫌いなのは、スプーンの底が平らになっていて、その平らな部分がざらざらになった、苺を潰すためのスプーンである。あのスプーンでフルーツ・カクテルなんか食べるときの感触は、唇でイーピンを盲牌してるような感じだ、と私は思う」
「ドキュメンタリーの撮影現場には、台本など不必要である。 もし、必要であるとしても、それは「そこへ」跳ぶためのものではない。「そこから」跳ぶためのものに過ぎない」
「みんなが信じこんでるものは、とりあえず、俺はやめとこう、あれは絶対ついていってろくなもんじゃない、と思っちゃうんですよねえ。自分でいいと思うものは自分で決めたいという気持ちがつよくありますね」
「ともかく正義は悪である、というのが私が戦争体験から得た教訓でね、これは今も変わりませんね」
「女のセーターには、いいものと悪いものがある。高いものと安いものがある。単純なものと飾りの多いものがあって、これらは相互に何の関係もない、といいたいところだが、そうはいかない。いいセーターは、まず九十九パーセント、高くて、プレインなものである」
「そんなことより、かつては美しかった、日本人の人情を失わないようにしようじゃないの。思いやり、気がね、遠慮、謙遜。こういったものは、世界のどこにも例の無い美しい国民性なんだ」
「でも、自分の嫌いなものをあれこれ考えるのはとても愉しいことです。美的感覚とは嫌悪の集積である、と誰かがいったっけ」
「僕は以心伝心などというのは信じません。いろいろなことを言葉にして、問題があればこまめに解決していく」
「要するに、お洒落、なんて力んでみても、所詮、人の作ったものを組み合わせて身に着けてるにすぎない。 ならば、いっそまやかしの組み合せはよしたがいい、正調を心懸けようではありませんか」
「そう。ある意味でね。ある意味で、この映画は僕の全人生の煮こごりのようなものではあるね」
「金を貯めようと思ったらね。
使わないことだよ。
あんたは葬式があれば2万、結婚式があれば3万と出すでしょう。
そんなもん出していたら金は残らない。
100万あったって、使えば残らない。
10万しかなくても、使わなけりゃ、
まるまる10万残るんだからね。
あんた今、ポタポタ落ちてくる水の下に
コップを置いて水ためているとするわね。
あんたのどが渇いたからといって、半分しかないのに飲んじゃうだろ。
これ最低だね
なみなみいっぱいになるのを待って、それでも飲んじゃだめだよ。
いっぱいになって、溢れて、ふちから垂れてくるやつ。
これを舐めてがまんするの。」
1987年「マルサの女」権藤英樹こと山崎努のセリフより引用
伊丹万作は
自分に誠実な人であった。
自分に非常に厳しい人であった。
自分に嘘のつけない人であった。
―伊丹十三
http://kotobahack.com/?p=251 他より抜粋させて頂きました。