BooksChannel meets Amazon | 特選!!#吉田拓郎 特集 PART1 | 2021年01月06日号 | #よしだたくろう #今はまだ人生を語らず / 吉田拓郎展 TAKURONICLE 1970 /全部だきしめて1998 / Hawaiian Rhapsody / 夏と君と冷したぬき / 20世紀打上げパーティー 他 |
日本のシンガーソングライター、音楽プロデューサー。本名同じ。旧芸名は平仮名のよしだたくろう。
竹田企画(事務所)、avex trax(レコードレーベル)に所属。鹿児島県伊佐郡大口町(現在の伊佐市)出身。広島商科大学(現在の広島修道大学)卒業。血液型A型。身長176.5 cm。フォーライフ・レコードの第2代社長を務めた。妻は森下愛子(1986年結婚)。元妻は四角佳子(1972年 - 1975年)→浅田美代子(1977年 - 1984年)。楽曲提供者としては入江剣のペンネームも用いている。多くの芸能人や関係者・ファンが「拓郎」と呼び、「吉田(さん)」と呼ばれることは皆無に近い。
自作自演スタイルの一般化
ダンガリーのシャツにジーパン、ギブソンのギター、ハーモニカ・ホルダーを首にかけ、歌詞カードを譜面台に乗せ座って歌う、うつむいてボソボソと喋り、時々客席をむいて何かを叫ぶという拓郎のスタイルを多くの若者がまねた。
泉麻人は「自分の身のまわりの、ほんのちょっとしたことを唄にしてもいいんだ、と、拓郎の出現によって、レコードを聴くばかりでなく、オリジナルの曲を作って唄ってみたい、と思った人は僕らの世代に多いはずだ。そういう身近さが吉田拓郎の何よりの魅力だった」と述べている。拓郎ほどその生き様と歌がぴったり一致しているアーティストはいない。
それまで自作自演は一部のフォークだけだったが、拓郎以降、それが一般化した。1970年代から、少なくともフォークやロックは自作自演であることが大前提になっていくが、拓郎はそのきっかけになった。
拓郎の効果でギター、ダンガリーのシャツ、ジーパンが非常に良く売れた。拓郎以前は外国人ミュージシャンのコピーが主流であったが、拓郎以降は拓郎をコピーする若者が増えた。拓郎がフォークの大ヒットを出したことでブームは中学生にまで及んだ。誰でも拓郎になれる、と当時の若者は信じた。
ニュー・フォーク
『YOUNG GUITAR』誌上で、拓郎のギターは従来のフォークにリズム&ブルースのフィーリングとビートが加わっただけで新しいものではないが、得意なギター伴奏に本当の心の歌を歌い上げている。素晴らしい詩人であり音楽家であり、とうとう日本にも真のフォーク・シンガーが生まれたと評された。
『新譜ジャーナル』は、拓郎ら新たに台頭してきたフォーク・シンガーをまとめて"ニュー・フォーク-第三の流れ"と紹介した。"第三の流れ"というのは、アングラフォーク、カレッジフォークに続く流れという意味である。1960年代のアングラに対して、1970年代の拓郎に始まる第3の波により、ニュー・フォークがメジャーとなった。ニュー・フォーク以外にも、アウト・フォーク、ジーンズ・フォークなどの呼び方もされたが、これらは拓郎登場以降の呼び方である。
拓郎は当時のフォークファンの中では珍しく、若い女性ファンが多かった。なぎら健壱は、「フォークは拓郎の登場を境に硬派路線とアイドル路線に分かれ、拓郎が新境地を次々と開拓して絶頂期を迎えると同時に、フォークは終焉を迎えた」と述べている。
1960年代後半の社会的な内容を含んでいるものが目立ったフォーク・ソングは、拓郎の登場で形態が大きく変わり拓郎以降、個人の心情や風景をうたう歌や、愛の歌が増え、次の時期のニューミュージックへの架け橋にもなっていく。
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