[本日の厳選 " 早坂茂三特集 " by BooksChannel] 2020年01月13日号 | 田中角栄 頂点をきわめた男の物語 オヤジとわたし (PHP文庫) 他 #早坂茂三 (著) #tanakakakuei #田中角栄
商品の説明
内容紹介
新聞社の政治部記者時代に田中角栄と出会い、以後23年間、敏腕秘書として勇名を馳せた著者が、政治の舞台からプライベートまで、天才政治家の生の姿を活き活きと描く。貧より身を起こし、不屈不撓(ふくつふとう)、小学校卒の角栄が、54歳の若さで日本の最高指導者に登りつめた秘密のカギは何であったのか? 秀才官僚はなぜ角栄に心服したのか? 憲政史上最大最強の人脈はどのようにつくられたのか? 刊行当時ベストセラーとなった著者渾身のデビュー作、待望の復刊。『オヤジとわたし』を改題。
○〝左翼の季節〟は終わった、○戦後デモクラシーが生んだ“人民の子"、○大平正芳との友情、○なぜ小学校卒で総理大臣になれたか、○裁判にも終始一貫、背すじをのばして、○政治の根っこは“義理と人情"、○嫁は下からもらえ、婿は上からもらえ、○政治は国民生活の片隅にあるのがいい、○白か黒かでなく、真理は中間にあり etc.
内容(「BOOK」データベースより)
新聞社の政治部記者時代に田中角栄と出会い、以後23年間、敏腕秘書として勇名を馳せた著者が、政治の舞台からプライベートまで、天才政治家の生の姿を活き活きと描く。貧より身を起こし、不屈不撓、小学校卒の角栄が、54歳の若さで日本の最高指導者に登りつめた秘密のカギは何であったのか?刊行当時ベストセラーとなった著者渾身のデビュー作、待望の復刊。
著者について
政治評論家
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
早坂/茂三
1930年北海道函館市生まれ。1955年早稲田大学政治経済学部卒業後、東京タイムズ社に入社。政治部記者時代に田中角栄と出会い、その後23年間、敏腕秘書として勇名を馳せた。田中の病気療養を境に、フリーの政治評論家として活躍。2004年逝去(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
文庫: 314ページ
出版社: PHP研究所 (2016/6/3)
言語: 日本語
ISBN-10: 4569766056
ISBN-13: 978-4569766058
発売日: 2016/6/3
梱包サイズ: 15.2 x 10.6 x 1.2 cm
" 早坂茂三特集 "
早坂 茂三(はやさか しげぞう、1930年6月25日 - 2004年6月20日)は、日本の政治評論家。
北海道函館市恵比須町出身。田中角栄の政務秘書を23年間務めた。「日本列島改造論」の名付け親でもある。秘書辞任後は、多くの著書を出版した。
来歴・人物
生家は呉服屋を営み、旧制北海道庁立函館中学校(現北海道函館中部高等学校)を経て旧制弘前高等学校を卒業後、早稲田大学政治経済学部新聞学科に入学。大学時代は学生運動にのめりこみ、一時日本共産党にも入党した。1955年に同大卒業。学生の頃からいずれは新聞記者になろうと思い、新聞社の入社試験を受けるが、朝日新聞は年齢制限で受けられず、読売新聞では最終面接の13人の中の1人に残るが、前歴が前歴だけに思想調査ではねられ、名も知らぬ新聞社だった東京タイムズに拾われた。政治部記者として最初の仕事は岸信介の番記者、次に日本社会党記者クラブに行き、安保闘争の後、自民党の佐藤派を担当。田中角栄と知り合う。
1962年12月、大蔵大臣の田中に呼ばれ、「オレは10年後に天下を取る。お前が学生時代、赤旗を振っていたことは知っている。そんなことは構わない。天下を取ろうじゃないか。一生一度の大博打だが、負けて、もともとだ。首まではとられない。どうだい、一緒にやらないか」と誘われ、同月10日、大蔵大臣秘書官事務取扱に就任。以来、内閣総理大臣在任中とその後の「ロッキード事件」による逮捕の時期を含め、田中が脳梗塞で倒れるまでの23年間にわたり政務秘書を務めた。
1972年、田中は総理となるが、田中金脈問題の追及と金権政治の渦に巻き込まれ、1974年12月9日、在任2年5ヶ月で首相の座から自ら離れた。翌年1月の松の内が明けた頃、事務所で田中が
「政治の世界はヤクザ者の世界だ。オレはお前がね、いつになったらヤクザになりきれるか、それをずっと見てきた。ところが、お前はヤクザになりきれなかった。これからもなりきれそうにない。お前はやっぱりジャーナリストが性に合っているぞ。その気になったら、背中に株を背負わせてやる。新聞社、テレビ会社の主筆、専務にでもなれ。お前の名義の株だから、それさえ持っていれば、オレがどうなろうと、びくともするもんじゃない。どうだ。やってみないか」
と勧めた。早坂は田中の温情が身にしみるほど有難かったが、失意の彼が時をやり過ごしながら、再び中原に駒を進める機会を待っていることを痛いほど理解していたため、「オヤジさん、まだ総理を辞めて一月です。私は役立たずだけど、もう少し、そばに置いてくれませんか」と言い、勧めを断わった。その1年後、太平洋の向こうからロッキードの小石が飛んできた。
1976年7月、田中は逮捕され裁判が始まると、それまで今太閤、平民宰相とさんざん持ち上げてきた世の中は田中に掌を返した。とりわけ、マスコミは掌を返したなどという生易しいものではなく、手厳しく、田中に筆誅を加えた。早坂は、新聞や週刊誌の記事を見る度にカッカきて本当に許せないと思い、マスコミ対応もぞんざいとなった。「早坂は傲岸不遜が三つ揃いを着て歩いているようなものだ」とマスコミから言われたのはこの頃である。
1985年2月に竹下登が派中派の創政会を結成。田中は事態収拾に動くが、その渦中に脳梗塞で倒れ東京逓信病院に担ぎこまれる。関東逓信病院のように脳神経外科が無かったものの、この病院への入院を主張したのは早坂だった。だが、長女の眞紀子は、医者や看護師に共産党員や創価学会員が多いので外に病状がもれる心配があるとこれを渋るが、早坂がそれを押し切り入院させた。田中の回復はほぼ絶望的で、病院側に無理やり頼んで、外部には軽い脳卒中と発表したが、所詮、当てもない時間稼ぎの苦肉の策であった。そうこうしている内に、田中の治療方法を巡って田中家と病院側、早坂の意見の食い違いが表面化し、早坂は田中家から斬られ、田中の逮捕後、砂防会館から隣のイトーピア平河町ビルに移した、田中角栄事務所を閉鎖。同年7月、後藤田正晴や梶山静六らからの支援を得て麹町のマンションに事務所を開き、政治評論家に転身した。
事務所を開き、真っ先に取り組んだのが、何くれとなく世話になった多くの人々への挨拶状送付で、その総数は千通を超えたが、いの一番に返信をくれたのが福田赳夫であった。その趣旨は「早チャン、長い間、本当にご苦労さん。疲れたろう。一息入れて、がんばれ」であった。 福田は田中の最大のライバルで敵方の総大将であったが、その福田が誰よりも早く、励ましの言葉を送ってくれたことが嬉しく、早速、福田事務所に連絡をとり、お手紙を頂戴したお礼に参上したい旨を告げ、翌日、赤坂プリンスホテル旧館隣の建物にあった福田事務所を訪ねた。すると、福田は破顔一笑して、「よう、早ちゃん、しばらく、元気そうだな。さあ、おれの部屋に行こう」と早坂を促し、一時間ばかり四方山話に花を咲かせた。福田は田中の病状を心配し、繰り返し何度も聞き、早坂は言葉を選び慎重に答えた。翌日の午後、早坂の事務所に十人以上の新聞記者から次々に電話が入り、福田と会ったことを聞かれた。なぜ、会ったことを知っているのかと早坂が問うと、福田番の新聞記者が夕べ、福田邸に夜回りに行くと福田が「けさ、久しぶりに早坂くんと会った。角サンのことを色々聞いたが、彼は肝心なことを何ひとつ言わなかった」と話したからだと記者たちは異口同音に言うのであった。
秘書稼業の最大の要諦は、主人の秘密を誰にも明かさない。守り抜くことである。新聞記者の口は世間に向かって開かれおり、彼らの口コミは風のように広がっていく。福田はそのことを十分に承知した上で、秘書の基本的条件を満たしているということを福田らしい表現でマスコミに伝えてくれた。風雪の歳月に生きた私をねぎらってくれた。福田赳夫が私に勲章をくれたのであると早坂は自著に綴っている。
政治評論家に転身後、田中の政治的足跡や、出会った人々の生き方をテーマにした著書を多く出し、人生論を若者向け雑誌に連載し、全国各地で講演活動を行うなど幅広い活動をしていた。テレビ番組では、報道番組の他、多数のトーク番組やクイズ番組、またドラマにも特別出演した。冠番組として、政財界要人との対談番組『茂三の渡る世間の裏話』(テレビ朝日)があり、30分の生放送で司会を務めた。
2004年6月20日、肺ガンのため73歳で死去。
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